1. はじめまして、このサイトの管理人、HIDEです。

どんな人物が書いているのか、以下をお読みいただければ少しでも分かっていただけるかと思います。

学生時代

関西で生まれ育ち、普通に中学校に入学。

部活動は坊主頭でしたがテニス部に入部、そこで良い成績をおさめ推薦を受け高校に入学。

高校ではレギュラーにもなれなかった、にもかかわらず指定校推薦で大学には入学させていただき感謝しかありません。

大学での部活動は、中学・高校とは違いとても緩く衝撃を受けた。

卒業まで顧問の先生を1度も見たことはない。

学業は、3年で卒業単位をほぼ取得し、4年生の時は試験日だけ大学へ行く。

部活動は最後まで続けた(全員が3年の秋に引退)が、酒と麻雀を覚え、バイトとパチンコ三昧、後に残るようなものではないのが寂しい大学生活だった。

就職活動

中学・高校時代は坊主頭で朝から晩まで部活三昧。

その反動で遊び放題の大学生活、当然卒業後の就職先をどうするのかなど考えたこともなく、4年生の4月を過ぎた頃には、すでに内定をもらっている者が多数いた。さすがに焦りと将来に対する恐怖を感じ就職活動を始めることにした。

当時の就職活動は、目当ての会社に直接電話をし、説明会の日時を聞き出向く。

まず最初に、仲の良かった先輩が就職した、という理由だけで、そのアパレル会社にアポを取り、順調に3度ほど面接を受けるが残念ながら内定はでなかった。

今考えると、なぜそう思っていたのか分からないが、絶対にその会社に就職できると信じていた。

挫折は高校時代に経験しているので、そんなに落ち込むことはなかった。

しかし、もう6月に入っていたと思う、焦ってはいたので、アパレル関係の東証一部上場企業に絞り、まだ説明会を行っている会社に突撃。

まず最初の会社説明会に1時間ほど遅刻する(当然、前もって講義で送れると電話連絡はしました)。その時は、広~い部屋でたった一人、適正テストを受け、次回の1次面接も1時間ほど遅刻をしたため、これも一人で面接を受けた。

その後、2次面接、3次面接、最終面接を受けて、内定をいただく。

最初の段階で、2度も遅刻をしているにもかかわらず、内定を出していただいたのは何かの縁だと思い、入社を決断。

社会人生活

営業部に配属、担当地区は九州の寿屋で、親父と歳のかわらない先輩と2人で担当。

年間6億円程度の売上がある得意先で、毎月3回程の出張があり、3ヶ月も経った頃には1人で出張していた。

2年目は大分県と宮崎県の小売店を担当し、年間2億円の売上を上げる。

学生時代、スーツで働く事がカッコよく思え、それだけの理由で上場企業に入った。

毎月毎月やたらと長い会議、先輩方の愚痴などを聞き、働く楽しさっていうのが見いだせなかった。

今思えば、奥さんに出会うために、その会社に導かれたんだろう。

しかし、こういう昔ながらの上場企業の会社で経験した事はとても勉強になった。

結局、2年間働き退職する。

退職と同時に結婚、最初の会社とは、まったく畑違いであるが、親の知り合いの建築塗装会社で、職人さんではなく番頭として働きだす。

2つ目の職種

仕事内容は、中堅ゼネコンの新築工事で行う吹付・塗装工事が中心で、あとはマンション・コーポなどを管理する会社からの外部改修工事や部屋の塗装工事、小規模な建設会社・工務店からの塗装全般、という感じ。その現場を調査して見積もり作成、下請け調整、現場管理など、つまり”職人さんが実際に施工する”以外のすべてが番頭の仕事。

私にとって1番最初にこの会社で塗装の仕事を覚えさせていただいたのが本当に良かった。

ワンマン社長だったが、こと仕事に関しては誠実で、常に「自分の家を塗装する、そういう気持ちで仕事をしろ!」と職人に言っていた。

この考えが、私の根底にある。

入社した当初、朝の出勤は7時30分だったのが、7時20分になり、7時10分になり、7時になり、というように次第に早くなり、1年も経つ頃には6時20分になっていた。

遅刻をすれば500円の罰金、土曜や祝日は出勤で休みは日曜のみ、朝6時30分に出勤し、夜7時に帰ろうとすれば「もう帰るんか」と言われていた、現在では考えられない労働環境である。

特に気に入らなかったのは、17時に必ず2階にご飯を食べに行き、お風呂に入ってから降りてくる。その時間、1階の事務所で仕事がなくても帰れない。

毎月の労働時間は350時間はゆうに超えていたと思う、子供がまだ小さく、日曜日のみの休み、この労働時間では仕事ばかりで家族サービスなどすれば体力的にかなり辛かった。

さすがに子供が小学校に行きだすと、このままの生活ではだめだと思い退職を決意。

上場企業出身の為か、根が真面目なのか、体育会気質なのか分からないが、3か月前に退職の申し出をした。

※その上場企業ではボーナスの支払い時期の関係で3か月前に退職の意志を伝えなければいけなかった。

継いでもらうと思っていた、など引き止められたが、他の会社も経験したかったこともあり退職した。

 

2つ目の職種の2つ目の会社

次に勤めた会社は日本塗装組合の副理事をしている会社。

基本、土曜日・日曜日・祝日は休み、朝の出勤は9時からという条件として入社。あくまで基本である、実際に仕事があれば土・日・祝日関係なしに出るが、基本は休みですよ、という後ろ盾があるのが安心する。

仕事内容は最初の会社と同じだが、社長の考えが全く違う会社だった。

基本、仕事を知らない、元々設備塗装の会社だったが、娘の旦那が中堅ゼネコンの営業で、ある地区の市長さんの息子だということもあり、仕事をもらっていた、建築塗装は始めてからまだ日が経っていなかったので当然だろう。

入社最初、現場に挨拶に行った時の対応が凄く悪かった、ウチに対して相当悪い印象を持っているのはすぐに分かった程だ。

でも、まぁ、ちゃんと打ち合わせなどできる人間が居ないのに、仕事は発注しなければいけない、そういうところであろう。

しかし、当たりが悪いながらも気にせず、こちらがしっかりと打ち合わせをし、きちんと書類や施工もすると認めてくれるようになる。

市長がらみでもない物件も見積もりをし、発注してもらえ、別の現場所長からも声が掛かるようになってくる。

ただ、残念ながらこの会社にはかなり借金があり、私が入った時点ではもうどうにもできない状況だった。

今ではゼネコンの集金の場合、ほぼゼネコンが手形割引をして現金で振り込んでくれるようになったが、その当時はまだそんな制度はなく、現金よりも手形の割合が7割以上であり、日数も120〜180日であった。

銀行で割引できれば安い金額の手数料で済むが、なかなかそれだけでは資金が足りず、手詰まりの状況になればどうするのか、1番簡単なやり方は資金繰りが悪い者同士、手形を振り合うのである。

そういう手形は当然銀行では割引などしてくれない。

街金に持っていき現金化するのだが、そういうことを毎月すればどうなるのか、答えは簡単で、必ずどちらかがパンクする。

そうなれば、街金にその不渡手形を引き取りに行かなければいけない、即金で。するとその資金が必要になり、また誰かと手形を振り合う、そしてまたどちらかがパンクする、そんな状況を目の当たりにした。

仕事はたくさんあり、担当する現場は粗利も常に3割程度は挙げていたが、それでもどうしようもなくなり入社から6年ほどで倒産してしまう。

この会社では、いきなり連絡が取れなくなった人間が数人いる。

行う仕事の施工内容は同じだったが、気を使うところが違う、というような感じだった。

その後、2年ほど仕事をしていない時期がある。

2つ目の職種の3つ目の会社

よく仕事をしていただいていた下請けの社長から、「番頭を探している会社があるけどどうですか?」と連絡があり、朝の出勤は7時からと早かったが、基本、土曜日・日曜日・祝日は休み、という条件として入社させていただく。

仕事内容は前の会社と同じだが、そこは先代の跡を継いだ2代目が社長の会社だった。

歳をとってからの一人息子であり、いわゆるボンボンである。

先代には本当に世話になったんだ」という得意先の方はたくさんいたが、若(社長)に世話になった、という話は聞かなかった。

職人さんや下請けさんも皆そう言う。

そういう事は事務所の細かい所をみても分かる事である。

最初は普通に仕事をしていたが、4年程度たったころに東京で1つ現場をしてほしいということがあり、私が担当をして、日帰りで3回程現場で打ち合わせをして最終的に800万ほど粗利を出した。

得意先は喜び、その後も仕事を発注してもらう事ができ、今度は社長が担当すると言い出した。

毎週1回は泊りで東京に行き、ハッキリと覚えていないが、おそらく3か月ほどかかってそれだけを担当し1500万ほどの損失をだした。

その後、ガソリン代のレシートに走行距離を書いて欲しい、など細かいことを言いだすようになった。

その年が明けた月には、毎月の給料も少し減らして欲しい、その代わり粗利の30%を給料から引いた分をボーナスとして出す、と言ってきたが、結局、その約束は果たされなかったので退職した。

その後、特定の会社に所属せず、マンションの大規模修繕工事の現場監督を中心に行い現在に至る。

 

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